タイ北部のドイインタノン国立公園にて開催されたトレイルランニングレース(Doi Inthanon Thailand by UTMB)でタイの夏山50kmを走ってきた。
山を走ると言っても、走ったり歩いたり、エイドでご飯を食べたり、時には雑談したり、景色を楽しんだりしながら進む。しかし山の登りはしんどい。座り仕事の運動不足解消に少々走っている程度で出場した一昨年の37kmの大会では、よれよれになりながら、最後から2番目でなんとかゴールした。もっと良い順位でゴールできるようになりたいとは全く思わなかったし、ぎっくり腰にもなって、山は走るものじゃないと思ったが、それから半年後、きっかけというのは不意にやってくるもので、走れるようになるために走りはじめていた。地道な日々を繰り返した結果、46kmのレースが走り切れて、今回53kmを走り切れた。どちらも最後から2番よりは良い結果だったし、ぎっくり腰にもなっていない。
ついでに、地道に走っても体重は少し落ちる程度だった。毎日走る人の体験ブログで痩せないと書いてあるのを読み、嘘だろうと思ったが今は共感できる。動いた分はきっちり食べているからだ。
さて、タイの夏山を走った話。
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スタートの午前6時はまだ真っ暗で、50kmのレースは参加者が一番多いカテゴリーだったこともあり、スタートゲート内は人で溢れ返っていた。このレースにはツアーで参加していたから、同じツアーで一緒だった日本の方と、少しでも前の方へ行こうと人をかき分けた。竹で組まれた巨大なジャングルジムのようなゲートは電飾で青く光っていて、ライブに来たような高揚感に包まれていたが、ここには見渡す限りトレイルランナーしかいない。慣れない時計の設定を確認したりしながら、スタートを待った。
スタートしてから暫くは前も後ろも横も人だらけで、ゲートで一緒にスタートを待った方は想像以上の人の多さにスタート直後ダッシュしたそうだ。彼女は上位を目指す速いランナーだった。速く走れる人にとってあの人混みは厄介だったと想像する。ぞろぞろ進みながらも体を動かしていると、始まってしまった旅に実感が湧いてくる。進むにつれて混雑も解消していった。
走りながら夜が明けて、だんだん周りの輪郭がはっきりしてきた。すっかり明るくなった頃、頭を上げると遠くにTiger Head Mountainが見えていた。スタートから2時間、14km地点にあるA1エイドに着いてdrinking waterと書かれたサーバーから水を補給する、夏山で水は切らせたくない。エイド食はナッツとスナック菓子が見えた。次のA2エイドまで9km。食べ物の補給はせず、出発する。
この大会では各国の選手と交流しやすいよう、ザックに国旗を記したネームカードを任意で付けることになっていた。前を行く人は、タイ、マレーシア、中国、韓国、ざっくり言うとアジア人だ。おまけにみんな同じような格好だから似たり寄ったりで、目の前の道も、見える景色にもどこか親しみがあり、あまり海外にいる感じはしなかった。
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A2エイドでトイレを借りることにした。ところが、見つけられない、鍵が閉まらない、おまけに様式の勝手が違いすぎた。タイのトイレ事情については調べていたつもりで、山小屋のトイレだと思えば楽勝だとレース前は思っていたが違った。臭いとか汚いとかじゃない、文化が違う。ここは日本じゃなかったと痛感した。これもまた旅の醍醐味、なんて思う余裕は全然なくて、落ち着け落ち着けと言い聞かせた。なんやかんや焦ったA2エイド、水とバナナを補給して急いで出発した。
A3エイドまでは12km、森の中は走りやすく調子良く進んでいた。突然目の前が地面になった。どうやら転んだらしい。「are you ok?」と前後から聞こえてくる。足は動くし痛いところもなかった。柔らかい道で助かった。大丈夫、ありがとう!そう答えて起き上がり再び走り始めた。しばらくすると、どこからともなく野犬が現れた。野犬がいるとは聞いていたが、実際に現れると狂犬病の文字がちらつき緊張する。しかし襲ってくるでもなく吠えるでもなく、ただ並走するだけで、いつの間にかいなくなった。ハプニングが続く。今度は道が崩壊して木を何本か渡しただけの進み辛い所が出てきた(記憶が曖昧だが、それまでもいくつかやっつけで作ったような道はあったように思う)戸惑ってしまった人は、ずるずる滑ったり、座り込んでしまったり、見ているこちらがソワソワするような動きになっていたが、そんな人に自分のポールを掴ませようとしたり、進み切れるよう手を差し出す、ランナーを見守るランナーがいることに感心したのを覚えている。
森を抜けて視界がひらけた。山の谷間に段々畑、どこか懐かしい光景が広がる。ルートになっている田んぼの畦道を通り、小さな集落に入った。森と違って日差しが遮られないから、めちゃくちゃ暑かったが、バナナやパパイヤが家の庭やそこらじゅうになっていて、集落の子供が私設エイドで水を振る舞っていたり、おばあさんが道に水を撒いていたり、村人の気配にテンションが上がったところでもあった。タイのランナーと通じ合わない会話をしながら進む。
集落の終わりで登りが始まった。後ろから「登りは得意ですか?」と声をかけられる。「先に行って良いですか?」だと解釈し、先に行ってもらったが、すぐに追い越してしまった。ただの雑談だったのかもしれない。ここは景色が良い反面、暑い登りだった。黙々と歩いていると「パパイヤだよ」と前を歩いていたタイのランナーがパパイヤを指差していた。彼女のペースは登りも下りも平坦な道も絶妙で、ぴったりくっついて進んだ。しかし暑い、水も飲み切ってしまいそうだった。暑い、きついとぼやいていたと思う。スタートから6時間、ようやくA3エイドが視界に入って、喜ばずにはいられなかった。「この後の登りはきついから気をつけてね」そう教えてくれる彼女にこの先も付いて行こうと思ったが、エイドの冷えたポカリに冷えたアミノバイタル、氷の入ったサーバーの冷たい水に生き返った心地がして、バナナをいくつか頂いているうちに彼女は出発してしまっていた。
次のA4エイドまでの9.6kmは、ドイインタノン山にあるツインパゴダを目指して1000mほどを一気に登る、タイの彼女の言う通り、心してかからねばならない道だ。ポケットにみかんを入れてA3エイドを後にした。
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ほどなくして胃の不快感に襲われた。熱中症?固形物不足?塩分不足?普段食べないジェルのせいか?とにかく気持ち悪い。羊羹を口にしてみたら甘すぎて余計に気持ち悪くなる。だったら塩かと、塩を水で流し込み、自然のものを胃に入れようと、ポケットに忍ばせたみかんの皮を剥き始めた。甘くも酸っぱくもない大味のみかんだったが、嘘みたいに胃が落ち着いた。みかんが効いたのか塩が効いたのか、その後、羊羹を食べてもジェルを食べても気持ち悪くなることはなかった。
気を取り直し、ひたすら登った。ここではインドのランナーと前後していた。長い長い登りでへたり込むランナーも結構見かけたが、インドのランナーとは差が開くこともなく、気が付けばずっと同じペースで登り続けている。夏のゲレンデのような、段々になった急斜面にうんざりしたこと、標高が上がって急に風が強くなったこと、雲の合間の太陽、やたらいたカメラマン、思い出そうとしてもここの区間は本当に、ただひたすら登ったという大雑把な記憶しかない。その中でも記憶に残っているのは、インドの彼が突然「この香りは何だ?」と聞いてきたことだ。そう言われると森の中に甘い香りが漂っていた。スパイスの国の人は香りに敏感なのだろうか。そしてその問いに咄嗟に出た単語が虫除けスプレーだった、いただけない。木々の間から山頂に立つパゴダが見えた。この登りもいよいよ終わりが近づいてきたかとホッとする。観光地になっているパゴダに出ると一瞬で普段の世界になった。
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スタートから9時間、いよいよ最後のA4エイドに着いた。入り口にインスタントラーメンのブースがあった。大きな鍋と湯気とスープのいい匂い。トムヤムラーメンだ!迷わず頂く。久しぶりの食事らしい食事。スープの温かさが胃に広がる。めちゃくちゃおいしい。疲れていたから余計においしい。椅子もテーブルも空いていたが、ここで座ってしまったら立ち上がれないような気がして、立ったままで味わった。水を補給して、もう要らないだろうと思いながらも、みかんをポケットに入れた。
ゴールまで9km。ラーメンも食べたし休憩もしたし、元気いっぱい!ラストスパート!などと思ってみたが、固いアスファルトの下りを走るに耐える膝がなかった。走る以外に選択肢がないような道なのに、歩くしかできなかった。インドのランナーはずっと先に行ってしまったし、どんどん後ろからランナーが走り去っていく。悔しいなぁと、はじめてレースっぽいことを思った。ずっとアスファルトだったら最悪だと考えていたら、ルートが山道に入った。トレイルは柔らかくて膝に優しかった。これなら行けそうだと、恐る恐る走り始めたところで「がんばれ」とメッセージが届いた。絶妙なタイミングで届いたメッセージに、追い抜かれた分を巻き返す展開を考えたが、現実はそう都合よくいかない。走れる所を走る。それが精一杯だった。急斜面を無理やり切り開いたであろう、やっつけルートを下り、コンクリートの道に出た。前を走っていたタイのランナーが振り向き「あと2km!」と教えてくれた。
それからは事前の会場見学で何度か歩いた道になった。あそこを曲がったら会場だ!早く終わりたい一心で足を動かす。会場が見えてきたところで、背後から赤い髪のランナーがものすごいスピードで走り去って行った。びっくりしたし、何事かと思ったし、そのくらい速かった。どうやら100kmの1位のランナーだったようだ。50kmのたった1時間前のスタートで、私の倍を走ってきて、何故にそんな速さで走れるのか。なかなか貴重な場面だったように思う。
スタートから10時間52分、まだ明るい夏の夕方にゴールした。清々しかった。
ゴール後は160kmを走る夫を迎えるべく、ゲート付近で色々なカテゴリーのランナーのゴールを見ていた。ひとりのランナーが近づいてきて「おめでとう!」と声をかけてくれた。完走メダルを下げていたから分かったのだろう。あなたもおめでとう!それからほどなくして夫も無事ゴールした
天気が良くて何よりだった。